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中日ドラゴンズ観戦記と覚書,2023年まとめ

2023年シーズンのドラゴンズ観戦記

◇撮影機材
・(メイン)SONY ILCE-7M3+SEL70-200GM2+SEL14TC
・(一部)SONY ILCE-7M4+SEL16-35GM

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2023/11/25ドラゴンズフェスタ
パートナー(妻)と息子が観戦
↓ 来場記念配布ファイル↓ フェスタのパンフ(現地配布)

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2023/11/18 ナゴヤ球場秋季キャンプ

 続いて、WBC以来、ドラゴンズのファン化したパートナー(妻ですね)と子供の頃からのドラキッズである息子と三人でナゴヤ球場を訪れた話。25年ぶりです。

中日ドラゴンズの秋季キャンプを家族で視察。
私は今年の最終戦(10月読売戦)以来ですが、妻と息子は11月25日のファンフェスタにも行っている。

 怪我で休んでいた石川も復帰して、元気なブライト選手の声や新任の堂上コーチの張り切り振りも確認でき、有意義な一日を過ごすことができた。
井上二軍監督や片岡ヘッドコーチも久々に見ることができたし、根尾クンにも会えたし。

私的には田中幹也選手が元気に練習していたことを見ることができたのが収穫。
バッティング練習では細川選手の新たな取り組みや、「やっぱ石川のバッティングはスゴイね」を再確認した次第。
動画もいっぱい撮影したけど編集が面倒なので画像のみ紹介。

↓ 立浪・新庄と初代ドアラ。仲地と記念撮影ブース

↑ハンバーグ師匠とサカナクションの広告。できればこれに「緑黄色野菜」が加われば栄養的にもバランスが良くなる(ハンバーグ師匠談)。

立浪監督と新首脳陣。

今キャンプより1軍コーチに就任した堂上コーチ。ノックの後はバッティングピッチャーも務めていました。

↓ 今季最終戦の引退式。

↓ 贔屓の田中幹也選手も元気に守備練習。

↓ 石川選手も復帰。

↓ パートナー(妻)が贔屓する福永選手


↓ 村松選手

↓ 龍空選手。イチバン泥だらけになってました

↓ 投内連携守備練習

↓ 高橋投手もパートナー(妻)が贔屓する選手です。

↓ “投手”根尾クンも元気

↓ 育成から竜の勝ちパターン投手になった松山投手

↓ 投手陣のランニング

↓ イチバン元気なブライト選手。私の贔屓選手の一人。

↓ いろいろと和田コーチと相談しながら取り組んでいる細川選手。来年は背番号55に変更。

打撃練習は細川選手がズドーンというホームランに対して石川選手はスルスルっとボールが伸びていく。撮影に失敗したので画像なし(T△T)。
岡林選手はアジアプロ野球チャンピオンシップ2023で不在。

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★2023/10/03対読売戦と引退セレモニー
 (作成中)
↓引退選手と記念写真

↓ 引退セレモニーには堂上(兄)氏や栗山氏も来場


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2023/08/13対広島戦 2対1で勝利
・岡林選手26試合連続安打球団新記録
・9回まで柳投手ノーヒットノーラン
・延長で石川同点本塁打、宇佐見サヨナラ本塁打
・中日スポーツ(休業日コンビニ版)購入

石川同点ホームラン。

↑ 宇佐美サヨナラホームラン

↓ ライデル・マルティネス10回表まさかのホームランで今季初失点


↓ 9回裏までノーヒットノーランの柳裕也投手

↓ ドラゴンズ野手

↓ 広島カープの面々

↓ イベント。珍しいドアラのマイクパフォーマンス(口パク無言)

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★手作りユニフォーム(背番号の縫製はアウトソーシング)
・フェンダーギターの中古3台から作りあげた「ブラッキー」(エリッククラプトン)に真似て、私も持っている3枚のユニフォームと新たに特注したワッペン類で制作した「1954年代ユニフォーム杉下茂バージョンwith(権藤権藤雨権藤)雨雨権藤雨権藤,スペシャル」。

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2023/06/16対日ハム戦 1-2で敗戦
・新庄監督撮影
・東京スカパラ始球式
・高橋博人選手WBC表彰
・細川 8号本塁打(2回裏ソロ)
・上沢(日ハム)が8回3安打1失点
↓ ビッグボス

↓ ファイターズの面々。

↓ ドアラとチアドラ

↓ 立浪監督と新庄監督。東京スカパラによる始球式。

 ↑ ドアラは種田選手(中日→横浜)の真似フォーム?
↓ 小笠原投手とリリーフ陣


 

 

 

 

 


↓ バックネットからより1塁のベンチ上からの方が写真の写りが良い。

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2023/04/30対横浜戦 0-2で敗戦
・WBC優勝トロフィーとメダル観賞
・東(横浜)9回4安打完封勝利
・高橋宏人投手5回2失点敗戦

↓ WBC優勝トロフィーと高橋宏斗投手のメダルとサムライ全員のサインユニフォーム

↓ドアラとチアドラ

↓ 高橋宏斗投手

↓ リリーフ陣

↓ 野手の皆さん。まだ高松選手在籍中。

↓ アルモンテ、アキーノ、カリステ。

↓ DNA。“戦う顔”の京田選手が強烈な恩返し。

↑ 宮崎と牧をくれないかな。

▢過去の野球観戦・その他ドラゴンズについての記事

2008/08/06継続は力なり(山本昌)

2009/10/25クライマックスシリーズ10/18と野球の思い出

(王長嶋アベックホームラン,金田正一,板東英二,高木守道,江藤慎一出場観戦記)

2010/09/05ナゴヤ球場(中日球場)へ。山本昌45歳完封


2012/04/15おめでとう 山本(昌)投手 中日ドラゴンズ歴代最多勝タイの211勝

↓ TMGPの資料から転載(写っている男性は田中流通総合企画代表)

↓「OBパス」でベンチ横へ。ボールボーイの席に座って記念撮影。

↓ 西武時代の松阪投手と現役時代の立浪選手
↓ 2009年クライマックスシリーズ観戦

★グッズ 森野選手のサインバットが際立つ

● 故 高木守道氏と。素敵な紳士でした(2006年)


●ドアラとチアドライベントも主催したおかげで役得ショット(2006年)

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代表者の個人ページ 温泉組織と学会

温泉分析書マスターが語る。“p.H.”を「ピーエイチ(ピーエッチ)」と読むか「ペーハー」と読むか。「ピーエイチ(ピーエッチ)」と読まないと若者には通じない?。

 “p.H.”(pが小文字でHは大文字)とはPotential Hydrogen(水素イオン濃度指数)の略称で、溶液の酸性・アルカリ性の程度を表す。室温の水溶液では「7」が中性でそれより数値が低いと酸性、高いとアルカリ性。

この“p.H”をなんと読むかで世代がわかり、そして若者から「?」という怪訝な表情、もしくは冷笑されてしまうことになる。
温泉の勉強会に数回参加して気づいた点として講師の大学教授連は皆さん「ピーエイチ」と発音していた。
高校で理系を選択し大学で物理を勉強した息子に聞くと「中学校で“ピーエイチ”と習った」。
対して、前述の勉強会で受講側質問や発言した年配の方々は「ペーハー」と読む。

ペーハーからピーエイチ変遷
・1909年にデンマークの生化学者セーレンセーレンセンが提案。ドイツ経由で日本に紹介されたため「ペーハー」と読む。
・広辞苑(1955年)と日本産業規格(JIS,1958年)で「ペーハーピーエイチ」両方併記。
・教科書の用語基準となる学術用語集では1986年から「ピーエイチ」。
・2000年代になると教科書が「ピーエイチ」表記になる。
・広辞苑(2018年)で「ペーハーは旧称」と表記されている。

現在においては、日本の工業規格(JIS)が「ピーエッチまたはピーエイチ」、計量法では「ピーエッチ」のみとなっています。

 もちろん私の世代は「ペーハー」で、ほとんどの方々は「ペーハー」と読むが、温泉についての会話においては、“p.H.”をあえて「ピーエイチ」と発音している。
理由は簡単で、「ペーハー」というと素人感が漂い(最近の情報に疎い)、私の世代者が「ピーエイチ」と読むと、素人ではないことを相手(ペーハーと読まない人々)にアピールできるから・・というどうでも良い理由です。 そうなると困るのは他人が自慢げに「この温泉のペーハーは・・」とか語りだすと、いつもの悪い癖で「今はピーエイチですよ」と余計な突っ込みを入れたくなる。「計量法では“ピーエッチ”なんだけどね~」とか。これを我慢するのが辛いので、私の前では「ペーハー」と言わないでね。”(-“”-)”

 

 

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代表者の個人ページ 記録

毎年、8月15日に記録していることのまとめ。我が家の戦争体験。大阪大空襲,沖縄決戦,志願兵の叔父,呉海軍工廠,そして広島への原爆投下。Calamity befalls the common people.Record what I remember every August 15th.

 昨年、母が亡くなった時に、甥や姪、その子供たちも集まった時に我が家のルーツについて話をした。
「知らなかった」「初めて聞いた」「話してくれてありがとう」という感想を甥や姪から聞いて、意外と伝わっていないんだなと思ったことと、反応の中で「大阪で空襲に遭ってその後、数か月かけて実家に戻った」という母の回想と、「呉の海軍工廠にいて原爆の投下を目撃した」という父の回想部分について最も反応が大きかった。
大阪の空襲で母が死んでいたら、あるいは呉ではなく広島市内に父が滞在していたら、血族はもちろんのこと、配偶者や姻族もこの場所にはいない。

 戦争は大きく人の運命を変える。

 幼い頃、母から繰り返し空襲の恐怖を聞かされた。最後は決まって「子供には絶対にあんな思いをさせたくない」「(日本が)戦争するって言いだしたらヘルメットかぶって鉢巻締めて反対する(“ヘルメット・鉢巻”は当時の三里塚闘争の影響だった?)」という言葉で締めくくられる。
逆に父は戦争の話をしない。終戦時に20歳前で、徴兵はされていなかったものの、それなりの戦争体験はしているはずと思うが語らなかつた。
呉の海軍工廠に動員されていたことや父が原爆投下を目撃したという話は父方の叔母から伝え聞いた話で、父本人から聞いた記憶はない。
ただ、深酒すると決まって「俺は憲兵隊兵長だった」と繰り返す。軍隊経験も無いのに不思議だなと思っていたが、前述の叔母に言わせると「相当、憲兵に虐められたらしい」という話も聞いたので、それがトラウマとなっているのかもしれない。
※憲兵は当時の軍隊の警察で、工廠に動員された父との接点については疑問が残る。

 そんな両親の戦争体験よりも、私にとって痛烈な印象として残っているのは10代後半に海軍志願兵として戦死した母方の叔父の話。
終戦時に20歳だった母よりも2歳下だったので、当然、未成年。当時の血気盛んな若者として海軍志願兵に応募。
母の実家には軍艦と旭日旗をバックに水兵服を着て敬礼姿の叔父の遺影が飾られていた。母やその親族に似た容貌を持つ若者は紅顔の美少年だった。
母がその両親(私からすると祖父母)から聞いた話として、以下に記録しておきたい。

 熊野修験道や熊野古道が通る紀州南部の山奥から広島の呉まで行くということが、終戦間際の時代にどれほど大変だったかということは想像に難くない。
祖父母は満員の列車の連結部分にしがみついてはるばる広島へ向かった。
どうやってお金を工面したのか、いかにして切符を手配したのかは不明だが、最寄りの鉄道駅(当時の紀勢西線紀伊木本駅、現在の紀勢本線熊野市駅)まで、実家から山や谷を越えて歩いて一日かかる辺境地からの鉄道移動。
当時は紀勢本線が全線開通していなかったので、和歌山方面を経由する。
現在のルートで検索すると熊野市駅から呉駅まで629km、乗車時間(普通列車のみ)だけで13時間。現在の時刻表でも到着まで21時間かかる(普通列車移動)。
太平洋戦争末期の当時だったら数日かけての移動だったと思われる。
そこまでして祖父母が8人兄弟の下から3番目の子供に会いに行ったのか。
叔父が戦死したのは1945年4月7日。亡くなった場所はわかっているが他の多くの乗船員同様に行方は不明のまま。
乗船していたのは戦艦大和だったというが、それを確かめる手段を私は持たない。
ただ、九段の靖国神社に祭られていて、母がまだ元気だった頃、私の弟が参拝に同行してくれていて「戦没者名に(叔父の)名前があった」と教えてくれた。叔父の名前が現在も残っているのは位牌と墓碑銘と靖国神社だけになっています。

 はるばる会いに行った祖父母の前に現れたのは灼熱の機関科勤務で髪の毛がすっかり抜け落ちて痩せこけ変わり果てた姿の息子だった。戦艦の最下層でボイラーを担当していたという。
母が両親から伝え聞いた話はここまで。
母は詳しく様子を聞くことを躊躇ったという。叔父のことを聞くと両親が悲しくつらい顔をするからと言っていた。
叔父がもし本当に祖父母の言うように戦艦大和に乗っていたのなら位牌の裏の死亡日を見ればわかるが、今となってはそれも叶わない。
乗船していたとすると、3,332人のうち艦内下部で従事する約1,200名とされる乗組員と一緒に艦内に閉じ込められたまま沈没したと推測される。
退避命令が出たのは船が傾いてしまった後で、下部にいた乗組員は退避できなかったという話は、船の上部にいて船外に飛ばされて海に落ちたものの救助され生還できた方の手記で読んだ。(生還者は276人という)
たとえ、乗艦したのが他の戦艦であっても機関科であれば撃沈されたら脱出は難しい。
叔父は10代でその生涯を終えた。

 妻の実家でも戦死者がいる。
妻の母方の祖父は沖縄で戦死している。義母は数回、沖縄を訪れていて、たまたま妻も同行した時に平和の礎に刻銘された義祖父の名前を初めて確認することができた。
妻は刻銘を手でなぞる義母の姿を帰って来てから話してくれた。義母は義祖父をとても慕っていたという。
幼い子を残してさとうきび畑に囲まれた場所で鉄の雨の中で死んでいった父親を持つ家族は全国に多数いる。その無念を今となっては想像することしかできないものの、我が身に置き換えたら・・・。

 10代で戦争に志願して亡くなった叔父の失われた未来。最愛の我が子との最後の面会をしなければならなかった祖父母の思い。母の空襲の恐怖、父の原爆の投下目撃。幼子を残し沖縄で戦死した義祖父の無念
日本全国には同じような経験をしたことがあったり同じ思いをした人がいる。あるいは対戦国の人々も同様に失った未来と悲しみの消えない家族がいる。

今でも世界で紛争は続く。
惨禍は庶民に降りかかる。

 8月15日を迎えると思い出すことをここに記録する。

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【以下、上記文をGoogle翻訳&チョコ訂正】

 Last year, when my mother passed away, my nephews, nieces, and their children gathered to talk about our family roots.
When I heard my nephews and nieces say, “I didn’t know,” “I heard it for the first time,” and “Thank you for telling me about it,” I was surprised that they didn’t get it across.
In the reaction, My mother said,”After the air raid in Osaka, I returned to my parents’ home over the course of several months,” and my father’s recollection, “He was at the Kure Naval Arsenal and saw the atomic bombing,” received the most reactions.
If my mother had died in the Osaka air raids, or if my father had stayed in Hiroshima instead of Kure, my blood relatives, spouses and relatives would not be here.

 War changes people’s destinies.

 When I was young, my mother repeatedly told me about the fear of air raids. In the end, she always said, “I definitely don’t want my children to feel that way. ”
On the other hand, my father never talks about war. He was 20 years old at the end of the war, so he was not drafted into the military, but he probably had some war experience, but he didn’t talk about it.
I heard from my aunt on my father’s side that I was mobilized to the Kure Naval Arsenal and that my father had seen the atomic bombing, and I have no recollection of hearing it from my father himself.
However, when he drinks heavily, he repeats, “I used to be the military police non-commissioned officer.” I thought it was strange because I had no experience in the military, but according to the aunt I mentioned earlier, I heard that “it seems that I was bullied by the military police”, so that may be the trauma.

 The story of my maternal uncle who died in the battle as a volunteer soldier in his late teens left a stronger impression on me than my parents’ war experience.
He was two years younger than my mother, who was 20 at the end of the war, so naturally he was underage. As a hot-blooded young man at the time, he applied for the navy volunteers.
At my mother’s parents’ house, there was a portrait of my uncle wearing a sailor’s uniform and saluting with a warship and the Rising Sun flag in the background.
A young man with a face resembling his mother and relatives was a handsome boy.

I would like to record the following as a story my mother heard from her parents (my grandparents).

It is not hard to imagine how difficult it must have been to go from the mountains of southern Kishu, where Kumano Shugendo and Kumano Kodo traverse, to Kure in Hiroshima, just before the end of the war.
My grandparents clung to the joints of the packed train and headed all the way to Hiroshima.
It is unknown how he raised the money or how he arranged the tickets, but he traveled from his home to the nearest train station, through mountains and valleys.
which takes a day to walk across to the nearest train station。
At that time, the Kisei Main Line was not fully open, so it went through Wakayama.
According to the current route, it is 629km from Kumanoshi Station to Kure Station, and the boarding time (local train only) is 13 hours. Even with the current timetable, it takes 21 hours to arrive (by regular train).
At the end of the Pacific War, it would have taken several days to move.
why did the grandparents go that far to see the third youngest of the eight siblings?
My uncle died in action on April 7, 1945. We know where he died, but like many other crew members, his whereabouts remain unknown.

It is said that the ship on board was the battleship Yamato, but I have no way of confirming that.
However, it was enshrined at Yasukuni Shrine in Kudan, and when my mother was still in good health, my younger brother accompanied me to the shrine and told me that “(my uncle’s) name was in the names of the war dead.”
The only places where my uncle’s name still remains today are on memorial tablets, gravestones, and Yasukuni Shrine.

When my grandparents traveled all the way to see him, what appeared in front of grandparents was a son who had been working in the engine department and had lost all his hair. It is said that he was in charge of the boiler at the bottom of the battleship.
That’s all the story my mother told me from my parents.
my mother hesitated to ask about the details. She said that when she heard about her brother, his parents looked sad and distressed.
If my uncle really was on the battleship Yamato like my grandparents said, I would know by looking at the date of his death on the back of the mortuary tablet, but now that doesn’t even come true.
If he had been on board, it is presumed that he would have been trapped inside the ship along with about 1,200 of the 3,332 crew members who were working in the lower part of the ship.
The story that the order to evacuate was issued after the ship had listed, and the crew at the bottom could not evacuate .
(There are 276 survivors.)
Even if you boarded another battleship, it would be difficult to escape if it was sunk if it was an engine department.
My uncle died when he was a teenager.

My wife’s family also has a war dead.
My wife’s maternal grandfather died in Okinawa. Her mother has visited Okinawa several times, and when I happened to be accompanied by my wife, I was able to confirm for the first time my grandfather’s name engraved on the cornerstone of peace.
After returning home, my wife told me about her mother tracing the inscription with her hand. It is said that the mother adored her father.
There are many fathers and their families across the country who died in the “rain of bombs” in places surrounded by sugar cane fields, leaving young children behind. Although,now I can only imagine, if I replace it with myself…………。

The lost future of an uncle who died volunteering for war as a teenager.
The thoughts of grandparents who had to meet their beloved child for the last time. My mother’s fear of air raids, and my father’s sighting of an atomic bomb. The grief of my grandfather-in-law who died in battle in Okinawa, leaving a young child behind.
There are people all over Japan who have had similar experiences and who have had the same thoughts.
Or, the people of the opposing countries also have lost futures and sorrowful families.

Conflicts continue in the world today.
Calamity befalls the common people.

Record what I remember every August 15th.

May everyone live in peace

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源泉掛け流し黒湯天然温泉(ナトリウム-炭酸水素塩・塩化物冷鉱泉),SPA&HOTEL和(なごみ),レストラン和楽(東京都大田区)でアジフライのモーニング定食。温泉ソムリエの温泉分析書マスターの称号を得てからの第一回の入浴。https://t.co/BXwZRsDJF3#温泉ソムリエ